最後の砦、パッケージ

今ではパッケージという言葉にはいろいろな意味がある。いわゆる物を覆った(包んだ)本来の意味でのパッケージ。複数のアイデアを一つにまとめた意味でのパッケージ。政治の世界では政策パッケージと言われたりしている。

ここではいわゆる商品パッケージのことを書くが、商品パッケージは、実は二つの役割がある。

一つは商品そのものであること、一つは広告であること、

である。商品そのものであることはわかっても、広告でもあることに、違和感を覚える人がいるかもしれない。

読者の中でも経験していると思うが、例えば同じような商品の中で、なぜその商品を選んだのかと考えた時、パッケージで判断していることはないだろうか。もちろん購入する時は、価格をはじめ成分など、さまざまな情報を考慮して決めていることは言うまでもないが、それらを踏まえた上で、時々パッケージが決め手ということはないだろうか。

個人的なことで恐縮だがスーパーマーケットで数日に一度、牛乳を買うことがある。私は価格を気にする程度で、成分や製法、味などに特に強いこだわりがあるわけではなく、牛乳であれば何でもいい。しかし、いざ買うとなると棚に並んだ数ある種類の牛乳の中から一つ決めなければならないが、これがまた結構迷う。そういう場面に出くわした時、私はパッケージで決めている。

私はパッケージには生産者(企業)の最後のメッセージが込められていると考えている。そのメッセージを感じ取り、私の感性や価値観とマッチした時、数ある中から“この牛乳”を買おうという行動に至る。こういうことがあらゆる商品を購入する場面であるのだ。

スーパーマーケットには多種多様な商品が並べられ、あたかもパッケージ博物館に思えてくる。それらの商品はいくらテレビCMやWEB、新聞、雑誌などで宣伝しようと、最終的に店頭で手に取ってもらい、購入してもらわなければならない。その

最後のアピールがパッケージ

なのだ。冷凍食品や即席・カップ麺、飲料品、スナック菓子、レトルト食品、調味料などなど、それらのパッケージは商品そのものであると同時に広告でもある。

先ほど、パッケージには生産者(企業)の最後のメッセージが込められていると書いた。ではどんなメッセージが込めらているのか、具体的な商品を例に考えてみたい。私が勝手に感じ取ったメッセージだと予めお断りしておく。

私がこよなく愛するポテトチップスでヤマザキビスケットが出している【チップスター】がある。パッケージは至ってシンプルだが筒状なだけに、それだけで目を惹く。味ごとに色分けされていて、ポピュラーなのは赤色で、すぐに頭に浮かぶ人も多いと思う。私に言わせれば、もはやアイコンだ。

このチップスターのパッケージは、まず筒状という形状が特徴的だ。さらにチップそのものの形をU字型に反らせて製造し、それを重ねることで無駄な空間を排除している。同時にポテトチップスという割れやすいものを割れにくくしているという機能も併せ持つ。他社のパッケージは袋状が主だから、空気を多めに入れることで割れにくくしてコストを下げている。企業努力としては理解するが、実際に開けたら袋の膨らみ具合に比べて、案外中身が少ないことにガッカリし、最後は砕けて欠片になったチップスを食べることに苦労する(笑)チップスターにそういうガッカリと苦労は皆無だ。その分価格では他社に負けているが、食べごたえと食べやすさには歴然とした差がある。味は人それぞれ好みがあるから、どちらがどうだと言うつもりはない。同様のパッケージにプリングルズがあるが、チップが筒に直接入っている分、割れやすいのではないかと思われる。また個人的には筒に直接手を入れなければ食べられないから、食べにくさは否めないと思われる。その点、チップスターは一度包装した上で筒に入っているから、そういった憂慮もまったく必要ない。

筒部分にはポテトチップスの重ねられた写真があり、よく見ると筒の中の包装を開けた状態になっている。これは、

中身の状態をわかりやすくしている。

驚くことにパッケージにある写真と実際に開けた時のギャップがない。パッケージの写真どおりギッシリ詰まっている。これは

“かなり嬉しい”

ことだ。

こうして見ると、

食べる人への期待を裏切らない

という企業のメッセージを感じる。そして赤色には、陳列棚にあるライバル社の中で、

少しでも目立つようにという健気さ

が感じられる。また赤色には食欲を刺激する効果もある。このようにチップスターのパッケージには、

商品をとても丁寧に扱う妥協なき真摯な企業姿勢

が窺えるのだ。

スーパーマーケットにおけるチップスターは、大体陳列棚の最下段に置いてある場合が多い。酷い場合は、最下段の端の方に追いやられている。正直視野に入りにくく、そのハンディたるや想像に難しくない。スーパーマーケットからすれば、筒状だから陳列しにくいのかもしれない。それでもチップスターは

筒状のパッケージスタイルを止めないところに、商品への自信を窺わせ、ブランドの矜持

を感じるのだ。コンビニエンスストアでは、ハーフサイズのパッケージがある。店舗スペースや客層を考慮した販売戦略だろうと思うが、

筒状であることとデザインは一切変えていない。

一時、よく行くスーパーマーケットからチップスターが消えた。まさか売り切れか?!と思いきや、置くことを止めたという。さすがに「ポテチといえばチップスターでないとダメだから仕入れてほしい」と店員に頼み、且つお客様カードにも書いたほどだ(笑)数日後、チップスターが陳列棚に並んでいて、即座に買ったことは言うまでもない。

店頭で商品を購入してもらうための【最後の砦はパッケージである】ということが少しは理解していただけただろうか。時々パッケージデザインにも注目し企業のメッセージを自由に感じて、日々の何気ない買い物がちょっと楽しくなれば嬉しい。

<メンタルサポート事業>

広告制作者のココロ持ち

前回のコラムでは生活者視点について書き、最後に広告制作には愛がなければならないと書いた。『愛』というと哲学的で抽象的なので、少し具体的に書いてみようと思う。

世の中にある商品やサービスは、単に営利目的ではないと仮定して、大企業から零細企業が提供するものはすべて、社会に資する『目に見える愛のカタチ』であるとする。

であれば、商品やサービスは、それらを提供する企業の『愛の塊』であると言うことができる。

例えばカップラーメンという商品。カップラーメンばかり食べていると健康によくないことは言うまでもない。しかしカップラーメンを製造・販売している企業の思いは、ちゃんと食事が摂れるまでの繋ぎとして、手軽に空腹を満たし、とりあえずの栄養を摂ってほしいという『愛情』からカップラーメンを提供していると思う。

例えば宿泊というサービス。ホテルや旅館の思いは、旅先でしばし日常生活を忘れ、少しでもゆったりと寛いでリフレッシュしてほしい、あるいは素敵な思い出を作ってほしいという『愛情』から、料理や設備、眺望などを通して宿泊というサービスを提供していると思う。

このようにクライアントが提供する商品やサービスは『愛の塊』であるから、クライアントにとって、それはそれは

“可愛い大切なもの”

であることを、広告制作者はまず理解しなければならない。さらに、クライアントは(無意識に)可愛さ余って親バカのような心境になっているから、広告には『あれも言いたい、これも言いたい』となりやすいことも理解しなければならない。

しかし悲しいかな、他者(生活者)はそれらを聞いたところで『へぇー、そうなんだぁ』ぐらいしか思わないものだ。だからこそ、可愛いところはいっぱいあるんだけど、中でもここが飛び抜けて可愛いんだよね、と言ったほうがいい。なぜなら、ここが飛び抜けて可愛いと言われると、人は『どこどこ?』と好奇心をくすぐられ、見てみたくなるのが人情だからだ。我が子や恋人に置き換えるとわかりやすいかもしれない。我が子の可愛さ話や恋人のノロケ話を聞いた他者は、どういう反応をするか言わずもがなである。

広告制作者は親バカなクライアントが他者から嗤われたり、呆れられたりしない親であってもらうために、(可愛い大切な)商品やサービスに共感しつつ、他者視点で褒めることが求められる。簡単に言えば『この部分は本当に可愛いから、見たほうがいいよ』という口コミのような具合だ。

そのためには「そんなこと言っても見られませんよ(聞いてもらえませんよ)」とか「こういう言い方や見せ方のほうがいいですよ」「あえて全部見せないほうが(言わないほうが)いいですよ」といった、

愛のムチ“も”

必要になってくる。

クライアントの言うことをただ聞くことは『やさしい虐待』のようなもの

だと思っている。俯瞰して見た時に結果的に独りよがりな広告になってしまうから、クライアントのためにならないし、生活者のためにもならない。

広告制作者は広告を制作している瞬間、クライアントの次にクライアントの商品やサービスについて誰よりも最もよく考え、心を砕き、いかに価値ある商品であるか、いかに優れたサービスであるか、それをどう伝えるかに心血を注ぐ。

時々コンサルタント業と似ていると言われるが、似て非なるものだ。コンサルタント業は医師みたいなもので、広告制作者は(偉そうで恐縮だが)教師みたいなものだと言えばどうだろう。教師(広告制作者)は保護者(クライアント)と深く関わり、共に子供(商品やサービス)をいかに育むかを考える。医師(コンサルタント業)は患部(非効率・負債など)をいかに治療(改善・是正)するかを考える。医師(コンサルタント)と教師(広告制作者)とでは『愛情の表現方法』が違うことは明白だろう。

最後に独断と偏見だが、広告制作者の愛がよく表れていると思う広告を挙げたい。新潟県に本社を置く佐藤食品工業株式会社という企業がある。有名な商品なので知っている人も多いと思うが、この企業の商品に『サトウのごはん』がある。

玄関開けたら2分でごはん

というコピーを聞いたことがあると思う。クライアントは『電子レンジで2分温めれば食べられるスゴいご飯なんだよ!』と言いたいのは容易にわかる。便利なのはわかるが、生活者にはこの【スゴさ】がイマイチ伝わらない。そこで、『玄関開けたら』と前に付けることで『そうか!帰宅して2分で食べられるということか!』と具体的に想像できるようにした。これは商品価値をいかに引き出すか、生活者視点ではどうなるのか、という広告制作者の『サトウのごはん』への愛が生んだ好例だと思う。

メンタルサポート事業部

生活者視点

広告は誰が見るかを考えた時、それぞれターゲットの違いはあるものの、共通しているのは一般の生活者であることだ。法人の場合もあるが、いわゆる街に溢れる多くの広告は生活者が対象だ。

クライアントは商品やサービスの良さ(価格・品質・機能・性能・耐久性などなど)を伝えようとする。至極当然なことだ。ただ、良さをアピールしようとすればするほど、時に細部にまで至る場合がある。そうすると、生活者から見ればいろいろあり過ぎて、印象にすら残らない結果になる。

新聞広告や雑誌広告などは、良さを言おうとすればするほど文字情報や写真が多くなる。生活者はその瞬間『読むのが面倒くさい』と思うか『ただスルー』され、何れにしても飛ばされてしまう。つまり新聞広告や雑誌広告はページをめくった瞬間に判断されてしまうから、テレビCMよりシビアだ。

印刷されている広告を俗に【紙媒体】というが、紙媒体はどんな媒体であれ、スペースが限られている。たくさんアピールポイントを入れ込もうとすればするほど、ひとつひとつのアピールポイントは自ずと小さくなり、全体の見た目としてギッチギチな広告になってしまう。こうなると、

大抵の生活者は読もう(見よう)と思わない。

そこで重要になってくるのが、広告制作に携わる者の

生活者視点

で、クライアントの最も身近な生活者として、広告を制作しなければならない。

私は基本はクライアントの意向を重視するが、生活者視点で見た時に『これは読まれない(見られない)』と思ったら、忌憚無く意見し、商品やサービスの良さの中でも目玉となるアピールポイントに絞ることを進言するように心がけている。

まず見てもらわなければ話にならない。

興味関心を抱いた生活者のために、細部の良さを丁寧にアピールする媒体としてWEBサイトを活用していく。WEBサイトは紙媒体と違って動画も掲載でき、より生活者の理解を促進させることができる。

クライアントの意向をそのまま聞いて制作してしまうと、ほぼクライアントの独りよがりな広告になってしまうことが多い。クライアントだけが満足し、生活者にとってわかりにくい、見づらい広告になってしまうのは本末転倒というものだ。

そうならないためにも、広告制作に携わる者が生活者視点で時に意見し、提案し、クライアントにも満足してもらい、同時に生活者にも苦にならない広告を制作しなければならない、とても責任のある立場だ。

そのためには、ベタな言い方で恐縮だが、

がなければいけないと思っている。

メンタルサポート事業部

フォント(書体)のチカラ

新年明けまして、おめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

2020年 子年

新年最初はフォントについて書こうと思う。というのは、フォントとはデザインされた文字で、フォントによって印象が違うからだ。

あまり手紙を書かなくなったと思うが、数通でも年賀状を出し、この正月に受け取った人もいると思う。この時期限定と言ってもいい少し耳にする

印刷されたものより、手書きのほうがいいよね

という感想。手書きの年賀状のほうが人は好意を持つのはなぜか?と広告的に考察した時、内容もさることながら、潜在的にはフォントのチカラではないかと思った。

確かに印刷されたものは、手書きで書かれたものより圧倒的にキレイだし、見やすい、読みやすい。それなのに『手書きのほうがいい』とはどういうことなのか?

一般には送り主の『個性』とか『その人らしさ』などを感じるから、というのが多くの意見だろうと思う。『らしさ』を醸し出しているのは筆跡だが、筆跡を広告的視点で言うと、

その人がオリジナルにデザインしたフォント

だと言えるから、となる。それは同時に世界唯一のフォントであり、唯一無二なフォントであると言える。だからこそ、送り主その人の存在を直接的、本能的に感じられ、それが先に書いた、

印刷されたものより、手書きのほうがいいよね

という感想を受け手に言わせるのだろうと思う。つまり印刷だけの年賀状より、手書きの年賀状にはリアルなその人の存在感を感じるのだと思う。

日常に目を向けると、百貨店と近所の地場スーパーマーケットの広告を想像してみるとわかりやすい。百貨店の広告はDMを含め、綺麗にデザインされ印刷された広告が手元に届くことが多い。手書きのそれは見たことがない。一方で近所の地場スーパーマーケットの広告はというと、赤や青の一色で印刷こそされているが、手書きで書かれた広告が手元に届く。

百貨店の広告は高級感や高品質、高サービス、ワクワク感などを全面に表現して作られている。これは人々の夢や憧れ、ステイタスという

『ハレ』のニーズ

に訴えかける。

一方で地場スーパーマーケットの広告は、親近感や経済性などを全面に表現して作られている。店内の手作り感満載のポップも含めて、これは人々の日々の生活という

『ケ』のニーズ

に訴えかける。

こうしてみるとフォントには我々の無意識に働きかけるチカラがあることがわかる。日常生活において、フォントを意識することはまずないと思うが、フォントを常に意識しているのが広告だ。一般に、親しみや優しさ、面白さ、安心などを訴求する時は、ゴシック体系のフォントを使用することが多い。逆に信頼や誠実、伝統、自信などを訴求する時は、明朝体系のフォントを使用することが多い。

またターゲットによってフォントを使い分けることもある。子供や若年層などがターゲットの場合はゴシック体系を、男性やキャリアウーマンなどがターゲットの場合は明朝体系を使用することが多い。

ここではフォントにフォーカスして書いているが、実際にはこれにデザインが合わさって、商品やサービスの独特の世界観が作られる。ただフォントがデザインと少し違うのは、世界観をカタチ作る役割と同時に、実際に読んでもらうコピー的な役割もあるから、フォントには神経を使う。素晴らしいコピーであっても、そのフォントの太さ、大きさ、色、レイアウトによって、その商品やサービスの世界観が最終的に決まってしまうと言ってもいい。

名刺には相手にどんなイメージを持ってもらいたいか、その意図が凝縮している。今勤めている会社の自分の名刺のフォントを改めて見ていただきたい。名刺交換をした時、そういう視点で相手の名刺を見ると、その会社がどんな会社か垣間見えると思う。逆に自分の会社も相手にそう見られている可能性もある。店舗のショップカードは最たる典型例だろう。

一度は経験があると思うが、日本の保険会社の名刺と外資系の保険会社の名刺とでは、雰囲気が違うと思ったことはないだろうか。ざっくり言うと、日本の保険会社の名刺はどちらかというとゴシック体系のイメージで親しみや安心を表し、外資系の保険会社の名刺はどちらかというと明朝体系のイメージで自信や信頼を表している印象を受ける。

通勤電車でスマホもいいが、たまには車内の広告のフォントに注目して、好き勝手にあれこれ意図を想像してみるのも面白い。

メンタルサポート事業部

ある出来事と業界の悲哀

今日、12月25日は個人的にちょっと何とも言えない苦々しい日だ。

話は4年前に遡る。

私が広告業界に入ったのは20代半ばで、広告制作会社だった。電通と仕事をしたこともあった。その電通に勤務していた新入社員が4年前、自殺するという痛ましいことが起きた。そのニュースを聞いた時、広告業界に身を置く端くれとして思うところがあった。私がメンタル・イデア・ラボという事業を立ち上げたのも、この不幸な出来事と関係ないとは言えない。

劣悪な労働環境の中で働かせる企業を、世間では『ブラック企業』という言葉で揶揄しているが、その風潮を踏まえると、広告業界は業界そのものが

ブラック業界

だと言える。

ただ、広告業界のブラックな状態は

企業努力でどうにかしようとしても、どうにもならない構造になっている。

この業界全体の構造を是正しない限り、広告業界はいつまでもブラック業界のままだと思う。電通は4年前の新入社員以外に、1991年にも入社2年目の社員の自殺者を出している。それでもなお、電通は今も労働基準監督署から違法残業を指摘され是正勧告を受けている。私は電通だけが違法残業をさせているとは思っておらず、他の広告会社も似たり寄ったりだと思っている。

なぜか?広告業界の特徴と言ってもいいかもしれないが、広告業はサービス業で、クライアントの要望を果てしなく聞こうとする傾向が強い。そういう業界体質と言ってもいいかもしれない。酷い話では、本来クライアント自身で作成すべき社内会議の資料を広告代理店に丸投げして作成させる、ということもあった。もちろん無償だ。広告代理店側は『その代わり仕事くださいね』という下心があるのは言うまでもない。カシ・カリ関係にも似た関係をクライアントと永遠に築き続ける業界と言い換えることもできる。

広告制作という仕事は、クライアントから広告を制作するために必要な資料などを提供してもらうのだが、その資料がスケジュールどおりに提供されることはまずない。ほとんどの場合、遅れて提供される。しかし

締め切りの日は変わらない

から、制作現場は常に巻きの状態になる。無理なく締め切りに間に合うようにいくらスケジュールを組んでも、クライアントが守ってくれなければ、絵に描いた餅なだけだ。

例えば、資料の提供日の終業時間近くに提供されたら上出来なほうで(それでも終電近くまで残業する羽目になるが)、大概は翌日に提供される。そして制作したもののチェックの返答が1〜2日ズレることもザラだ。こういうスケジュールのズレは土日を潰して帳尻を合わせ、締め切り間近ともなれば徹夜をせざるを得ない日が続く。

つまり、

クライアントがスケジュールを守ってくれることがない限り、いつまでも広告業界のブラック状態は是正されない。

夕方に資料を提供しておいて「翌日朝一で提出して」と平気で言ってくるクライアントは意外にも多い。制作現場は終電までに終わらせるか徹夜するしかないが、到底終電までに終わるような内容ではないため、徹夜になることが多い。あるいは、金曜日の夕方に依頼し月曜日の午前中までに、というクライアントもザラにいる。その場合、土日を潰して対応することになる。

私の経験では広告代理店に「テッペンにミーティングするのでお願いしまーす」と言われたことがある。テッペンとは深夜0時のことだ。以前テレビ局にいたせいか、テッペンに打ち合わせをすることにヘンに慣れていて、フツーにミーティングした。一般的にはあり得ないだろうと思う。

※テッペン:業界用語で時計の12時の位置が最上だからテッペンと言われている。テレビ業界でも使われていた。

過労自殺した遺族の意見は正しいし、気持ちも痛いほど理解できる。しかし電通一社の企業努力ではどうにもならない構造がある限り是正はされない。クライアントの意識も同時に変わらない限り、こうした悲劇は残念ながら続くと思われる。電通の特異な体質が問題の本質ではなく、経済界全体の意識が問題の本質ではないだろうか。

今般の『働き方改革』で受注する側の企業の社員が犠牲になることはあってはならない。発注する側の企業倫理が問われている。

広告制作はほぼ【論理】

広告の制作をしていると、時々「感性が豊かでないとできない仕事だよね」と言われることがある。確かに必要な要素ではあるが、それだけではない。

一部の職種、例えばグラフィックデザイナーやコピーライター、フォトグラファーには【感性】という部分が確かに必要になる。特にグラフィックデザイナーはデザインの専門学校や美術大学の出身者が多いことからもわかる。

私はグラフィックデザイナーではない。クライアントと制作スタッフの間に立つクリエイティブプロデューサーという立場だ。簡単に言えば、予算管理、進行管理、コンセプト策定、外注管理など広告制作全体をコントロールしたり統括することが仕事だ。これは美術大学など専門の学校を出ていなくてもできる。現に私は一般の四年制大学文系学部の出身だ。どの学部を出ているかは問題ではない。

感性だけではないと書いたが、それはなぜかというと、クライアントは表現に「なぜ?」と聞いてくることがほぼ確実で、根拠を知りたがる。ギャランティを払う側ということもあるが、むしろ意図を知り、理解、納得し、自分達による広告だと思いたいからだろうと思う。クライアントに代わってクリエイターが作った広告に対して、自分達が出す広告だという自覚と責任の表れだと理解している。

そのためにも、そこで感性の次に問われるのが表題にもある

【 論 理 】

だ。むしろ表現に【論理】がないと仕事にならないと言っていい。例えば「なぜ赤なのか?」と問われた時、論理的説明が必要になる。『何となく赤』だとイメージと違えば変更を要求される。しかし【論理】があれば『なるほど』となり、イメージと違っても納得を得られやすい。それでも変更を要求されることもあるが、赤を活かしつつになることが多い。

そういう論理が表現全体に必要になる。「なぜこの書体なのか?」「なぜこのコピーなのか?」「なぜ背景はこの写真(イラスト)なのか?」「なぜこのコピーの位置はここなのか?」などなど・・・。

こういう問いに論理的に説明ができなければいけないのが広告制作で、そういうやり取りをするのは、クリエイティブプロデューサー(あるいはクリエイティブディレクター)の役目になる。場合によってはアートディレクターが説明する。それゆえ、クリエイティブプロデューサーなどはデザインの専門学校や専門大学を必ずしも出ている必要はない。

基本的な感性を先天的に兼ね備えているに越したことないが、広告的感性は実務をこなしているうちに何となく身に付く。一方で私の立場は、エンドユーザー感覚を持ち合わせていることも必要だと思っている。つまり実際に広告を見る人の感覚、素人感覚の役目があるということだ。感性ばかりに長けてしまうと、いわゆる素人感覚と乖離してしまい、実際に見る人との間にズレが生じてしまう。広告は芸術作品ではない。

なぜ論理が必要になるのか。それは広告制作には必ずコンセプトがあるからだ。要するに“どういう広告にするか”ということ。

コンセプトは広告を制作する上での軸

となる。その軸がないと、表現が無限にあるだけに後々迷走し、疲弊することになる。

まず広告のコンセプトを考え、クライアントに提案、了承を得た上で、クライアントも含めて全員と共有しながらコンセプトに沿って制作していく。論理説明の拠り所にもなるので、コンセプトの設定は極めて重要となる。

木に例えると、コンセプトは広告制作の『幹』であり、その幹に沿ってデザインを考え、コピーを考え、全体のレイアウトを考えていく。それらは『枝』になる部分だ。幹となるコンセプトを考えることは意外と地味な作業だが、枝を伸ばすには無くてはならないものだから、最も肝となる作業と言っても過言ではない。

多くの人が関わる仕事でもあるから、コンセプトは旗印的な役割もある。迷ったらコンセプトに戻ることもあるし、コンセプトが明確で揺るぎないほど、論理的な広告制作が容易になる。私なりの言葉で表現すれば『美しく美しい広告』を制作できるということになる。

広告は感性と論理でできており、制作の現場では論理が常に求められる。時々問題になり中止や削除に追い込まれる広告もコンセプトはあったはずだが、枝の伸ばし方に社会との認識のズレがあると、批判や非難を誘発してしまう。あと一歩踏み込んで考えれば回避できたかもしれない、このあと一歩こそ【感性】の部分だろうと思う。

しかしながら、こうしたことはあらゆることに通底しているのではないだろうか。新商品や新サービスを考える時、必ずコンセプトを考える。飲食店における新メニューにしてもそうだ。コンセプトは物事を始める時の、

羅針盤

になることは無意識にせよ経験的に知っている。プライベートにおいても無意識的にコンセプトを考えている。そこには必ず論理がある。

メンタルサポート事業

【広告】と【幸告】個人的見解

ここ数年、【広告】と【幸告】の違いは何だろうか?と考えている。未だによくわからない、というのが本当のところだ。そもそも【幸告】という言葉は私の造語で、一般的に使われていない。

なぜ、そんなことを考えるようになったのかというと、起業して数年した頃、ふと【幸告】という言葉が浮かんだことがキッカケだ。以来自分にとっての【幸告】とは何だろうと思い巡らせた時、心地いい気分になり、もっと見ていたいTV-CMがあった。今でもそれは変わらない。

そうだ 京都、行こう。

もうお分かりだろうと思う。四半世紀続いているJR東海の広告だ。東海道新幹線を宣伝しているのに、東海道新幹線は一切出てこない(初期の頃こそ最後にチラッと出ていた)。暗に東海道新幹線の利用をアピールしている。コピーも秀逸だと思った。

京都と言えば、首都圏で中高生時代を過ごした多くの者にとって『修学旅行で行ったところ』と言っていいだろう。それを映像美と共にあえて思い出させるコピーだと思った。(そういえば大人になってから行ってないな)『そうだ 京都、行こう。』という具合だ。

首都圏に住んでいれば、夜行バスはあり得ても多くの人は東海道新幹線に乗って行こうとするのが自然だろう。まず飛行機は考えない。この広告で東海道新幹線に乗ろうと思ったわけではないにもかかわらず、東海道新幹線を利用することになるということは、即ち“JR東海を利用すること”なのだ。

それから全日空の『夢見るヒコーキ。ANA』もBGMと併せて【幸告】として大好きだった。あえて飛行機を『ヒコーキ』と【ひらいている】ところも奥行き感があっていい。故郷編では少し目が潤んでしまったほどだ。子供の頃は明治製菓(当時)の『カール』。カールおじさんのアニメーション広告は子供ながらにワクワクした。

このようにサービスや商品の直接的ではない広告により、買う、利用することに繋がる広告は、私の中で広告を超えた【幸告】だと感じる。そういう意味での【幸告】は読者の中にあるだろうか?私のように思わずともよく、もっと直球的なあの広告がいいという人もいるだろう。それはそれでいいと思う。

つまり、【広告】と【幸告】の違いは各々の人の心に何らかの

“ ト キ メ キ ”

を与えたかどうか。この“トキメキ”は『心地よさ』や『面白さ(ストーリー性など)』『ワクワク感』でもいいし、あるいは『憧れ』でもいい。ただ私にとって『便利そう』とか『お得だな』などと思うものは【広告】であって【幸告】ではない。私は現実的な類のものはトキめかないから【広告】に分類している。

この差は何だろうと考えた時、やはりありきたりな言葉で恐縮だが、

夢があるかどうか

ではないだろうか。ある広告に夢を感じれば、その人にとってそれは【幸告】だろう。ここでいう夢とは、その商品を手に入れたり、サービスを体験することによって得られる、

その先にあるもの

だ。それがステイタスなのか、人としての品格なのか、憧れのライフスタイルなのか、はたまた自分ひとりで愉しむ優越感なのか・・・それは人それぞれでいいと思う。

最後に、私にとって【広告】から【幸告】になった商品がある。それは、

ハウス ジャワカレー

だ。簡単に言えば夫婦でカレーを作って食べる、という広告なのだが、そこに最近は『幸福のひとつのカタチ』を見てしまい『いつしかパートナーと一緒に作って食べるならジャワカレーかな』と、ほんの些細な『憧れ』になっている(現時点では・・・)。

『人生会議』ポスター問題を考える

厚生労働省の『人生会議』啓発・普及ポスターが問題になって、掲載中止になった。

『人生会議』という言葉にまずギョッとしたのが、私の第一印象だった。実際には掲載中止になったから、インターネットのニュースで初めて見た。

ガン患者やその家族に支援をおこなっている団体からの抗議が報道されて以降、多分いろいろあって掲載中止になったのだろう。しかし私はその抗議に同調する気にはなれない。なぜなら、ポスターがガンによる死を前提にしているとは思えないのに、抗議内容はあたかもガン患者を前提にしていると言わんばかりで曲解しているように思えたから。ポスターのターゲットは、いわゆる今まさに元気に仕事や勉学に励み、生活を謳歌している一般の老若男女だ。

このポスターについて、いろいろな記事を目にするが、広告制作に携わっている者として、私なりに制作者視点で考えてみたい。

よく見た上での印象は、吉本興業が制作したこともあり、吉本興業主催の喜劇のポスターのように思えた。そうであるなら面白いと思う。しかし、厚生労働省の啓発ポスターとして見た時、どこか違和感があった。その違和感とは、国民の生命に係わる行政を担う官庁にしては、いささか『軽いな』というものだった。

表現に違和感を感じる。

問題のポスターの表現は、当事者本人の嘆きのコピーと、それを言っている当事者役の芸人のどうにもならない歯痒い顔があり、心電図のようなグラフィックのラインで死を思わせている。とはいえ全体的な印象はコミカルだ。ターゲットが元気な一般人であることを思うと、一定の理解はできる。シリアスな内容だけに真面目なお堅い表現にすれば見られないと考えたのだろう。しかし、コピーにもある『命の危機が迫った時』の複雑な感情が入り混じるであろう設定の表現にしては、コミカルに過ぎると思えてしまう。この、

『命の危機が迫った時』の扱い

がしっくりこないのだ。

例えば、コピーは当事者視点ではなく、残される側視点がよかったのではないか。『残される大切な人に後悔させたくない』と思わせるコピーのほうが、

婉曲的で深い意味を持たせることができたのではないか

と。ただインパクトは薄れてしまうかもしれないが・・・。

ビジュアルにしても、モデルのキャラクターも手伝って一見当事者を茶化しているように見えてしまい、ちょっとした揶揄に見えなくもない。むしろ、残される側の姿にフォーカスしたほうが、ここでいう『人生会議』をしておくことの意義に

説得力を持たせることができたのではないか

と思える。

あるいは思い切って、

コピーだけでもいい

ようにも思う。

元々は『アドバンス・ケア・プランニング』と言われたものを一般に馴染みやすくするために『人生会議』という愛称に変更したようだ。『会議』という言葉を使うところが役人らしいといえば役人らしいが、ビジネスライクであたたかみに欠け、無機質で乾いた感じがしないでもない。

厚生労働のホームページを見ると「もしものときのために家族・大切な人、そして医療者と話し合っておきましょう」というのがコンセプトのようであるから『会議』としたかもしれない。ただ人生や命はウェットなものであり、フィロソフィックなものであると思うから、ビジネスライクな『会議』という言葉との結合は馴染まないように思う。

コンセプトから考えた時、例えば『もしもプラン』『三者計画』『充実ケア』のような言葉が浮かんだ。そのためには会議と言わずとも家族などと話し合いはおこなわれるわけだから。

今回の問題でクライアントである厚生労働省にしても、制作した吉本興業にしても、双方に共通して感じたことは、

生への深慮と命へのデリカシーの不足

だった。

それから委託費という4,070万円もデリカシーのない金額だ(笑)

【ひらく】と印象が変わる

【ひらく】という言葉は、広告制作の現場で使われると一般の意味とは全然違ってくる。一般には文字通りの『開く』という<オープン>の意味で使われると思う。

実際の現場では「これは、ひらいて!」とか言われる。つまりどういうことかというと、

漢字で書かれた言葉をひらがなにする

という意味だ。同じ言葉でも文字になると、その言葉から受ける印象が変わると感じたことはないだろうか?

例えば、『心』という言葉。話し言葉だと全く感じないことが、文字という見えるカタチになると、途端に雰囲気が変わってくる。

心 こころ ココロ

漢字の『心』は<真面目><お堅い><シリアス><堅苦しい><神聖さ>など、清らかで揺るぎない印象。

ひらがなの『こころ』は<優しい><やわらかな><あたたかみ><ほっこり感><安らぎ>など、包容力や情のある印象。余談だが夏目漱石の小説のタイトルもひらがなだった。

カタカナの『ココロ』は<科学的><軽やか><心地よさ><元気感><ポップ感>など、取っつきやすい印象。

これら以外の印象を持つ人もいると思うが、大体上記のような印象の範囲に収まるだろうと思う。日本語には漢字・ひらがな・カタカナの表記によって、どうやら印象が変わってしまう“特徴”があるようだ。他の言語にはない世界唯一のことかもしれない。

『薬』『くすり』『クスリ』でも印象が違うと思う。調剤薬局などはどちらかといえば『薬』、ドラッグストアなら『クスリ』、小児科医院や動物病院では『おくすり』となっていることが多いと思う。

意識的にせよ無意識的にせよ、なぜ、そういう使い分けがされているのだろうか?

それは、買う人、来る人、買ってほしい人、来てほしい人を考えて使い分けているからに他ならない。彼らをマーケティング用語で『ターゲット』という。

このターゲットに合わせて広告制作の現場において、漢字がいいのか、ひらがながいいのか、カタカナがいいのか、をいちいち考えている。コピーライターがそのことに神経を遣い、キャッチコピーやリードコピーに表現する。

例えば、ヤナセというカーディーラーがあるが、その広告コピーで、

クルマはつくらない、クルマのある人生をつくっている。

というものがある。如何だろうか?クルマをあえてカタカナ、作らないではなく『つくらない』、作っているではなく『つくっている』。これを漢字で普通に書くと、

車は作らない、車のある人生を作っている。

となる。言っていることは変わらないのに、印象は随分と違うと思う。前者は洗練された雰囲気と余裕を感じるが、後者は実直で職人気質のような頑固さを感じないだろうか。言っていることは同じでも印象はまるで逆だ。

どう感じるかは人それぞれで構わないが、同じ内容でも表記によって印象が違うということを感じてくれたらと思う。

仕事でメールを使用することが多いと思うが、ところどころ漢字をあえてひらがな、あるいはカタカナで表記する【ひらく】ということを戦術的におこなうと、相手に自分の印象を作ることができることを覚えておいても損はないかもしれない。また、相手によって使い分けてもいい。セルフブランディングの一助にも役立つと思う。

<例1> 
偉井部長、お疲れ様です。 
明日の飲み会は午後7時からです。 
いらっしゃる時はお電話下さい。
宜しくお願い致します。

<例2> 
偉井部長、お疲れさまです。
明日の飲み会は午後7時からです。
いらっしゃる時はお電話ください。
よろしくお願いいたします。 

読み手と【字切り】

一般に【字切り】という単語は耳慣れない言葉だと思う。広告制作の現場ではよく言われる言葉なので、業界用語と言ってもいいかもしれない。

何かというと、例えば次のようなコピーがあるとする。

かわいい子には旅をさせろ、それは生きていく知
恵を育むことを願う親心だ。少年よ、旅に出よう。

インターネットの世界ではこういう感じではないだろうか。しかし、紙媒体に掲載するとなれば、これではいけない。紙媒体に掲載する時は、

かわいい子には旅をさせろ、それは生きていく知恵を
育むことを願う親心だ。少年よ、旅に出よう。

となる。言っていることはまったく変わっていない。違うのは『知恵を育む』の部分を『知恵を』で敢えて改行し、『育む』を二行目から書いてあるかどうかの違いだけだ。意識的に改行されている後者のほうが、読み心地としてはよくなっていると思う。

読み手になるべくストレスを与えずに読んでもらうために、意識的に改行することを、

【字切り】

という。インターネットの世界では、この【字切り】を考慮していない。それは恐らく、端末によって見え方が違ってしまい、こうした【字切り】の意味がなくなってしまうからだろうと思う。そのため、インターネットでは時々おかしな終わり方が散見される。

例えば、

来年の東京オリンピックのマラソンは北海道の札幌に急に決まった。

最後の「た。」が勝手に改行されて字余りのような終わり方になってしまうというものだ。

紙媒体であれば、グラフィックデザイナーがそれぞれの文字と文字の間を調整して、一行に収まるようにする。

この文章で言えば『オリンピック』や『マラソン』という各文字の文字と文字の間は『北海道の札幌に急に』よりも余裕がある。

特に、

オリンピック

の『リ』と『ン』や『ッ』と『ク』の間は余裕がある。そこの文字間を詰めて『た。』だけが改行されないようにする。それでも難しい時は、

マラソン

の『ラ』『ソ』『ン』の間を詰めるなどで対応する。

広告制作の現場では、こうした地味な作業をおこなっている。常に読み手がより読みやすいように、また、全体のデザインのバランスを崩さないように、である。

電車の中吊り広告は、この【字切り】が駆使されているので、時々そういう視点で眺めてみると、窮屈&退屈な通勤通学の電車内がちょっとだけ楽しくなるかもしれない。