最後の砦、パッケージ

今ではパッケージという言葉にはいろいろな意味がある。いわゆる物を覆った(包んだ)本来の意味でのパッケージ。複数のアイデアを一つにまとめた意味でのパッケージ。政治の世界では政策パッケージと言われたりしている。

ここではいわゆる商品パッケージのことを書くが、商品パッケージは、実は二つの役割がある。

一つは商品そのものであること、一つは広告であること、

である。商品そのものであることはわかっても、広告でもあることに、違和感を覚える人がいるかもしれない。

読者の中でも経験していると思うが、例えば同じような商品の中で、なぜその商品を選んだのかと考えた時、パッケージで判断していることはないだろうか。もちろん購入する時は、価格をはじめ成分など、さまざまな情報を考慮して決めていることは言うまでもないが、それらを踏まえた上で、時々パッケージが決め手ということはないだろうか。

個人的なことで恐縮だがスーパーマーケットで数日に一度、牛乳を買うことがある。私は価格を気にする程度で、成分や製法、味などに特に強いこだわりがあるわけではなく、牛乳であれば何でもいい。しかし、いざ買うとなると棚に並んだ数ある種類の牛乳の中から一つ決めなければならないが、これがまた結構迷う。そういう場面に出くわした時、私はパッケージで決めている。

私はパッケージには生産者(企業)の最後のメッセージが込められていると考えている。そのメッセージを感じ取り、私の感性や価値観とマッチした時、数ある中から“この牛乳”を買おうという行動に至る。こういうことがあらゆる商品を購入する場面であるのだ。

スーパーマーケットには多種多様な商品が並べられ、あたかもパッケージ博物館に思えてくる。それらの商品はいくらテレビCMやWEB、新聞、雑誌などで宣伝しようと、最終的に店頭で手に取ってもらい、購入してもらわなければならない。その

最後のアピールがパッケージ

なのだ。冷凍食品や即席・カップ麺、飲料品、スナック菓子、レトルト食品、調味料などなど、それらのパッケージは商品そのものであると同時に広告でもある。

先ほど、パッケージには生産者(企業)の最後のメッセージが込められていると書いた。ではどんなメッセージが込めらているのか、具体的な商品を例に考えてみたい。私が勝手に感じ取ったメッセージだと予めお断りしておく。

私がこよなく愛するポテトチップスでヤマザキビスケットが出している【チップスター】がある。パッケージは至ってシンプルだが筒状なだけに、それだけで目を惹く。味ごとに色分けされていて、ポピュラーなのは赤色で、すぐに頭に浮かぶ人も多いと思う。私に言わせれば、もはやアイコンだ。

このチップスターのパッケージは、まず筒状という形状が特徴的だ。さらにチップそのものの形をU字型に反らせて製造し、それを重ねることで無駄な空間を排除している。同時にポテトチップスという割れやすいものを割れにくくしているという機能も併せ持つ。他社のパッケージは袋状が主だから、空気を多めに入れることで割れにくくしてコストを下げている。企業努力としては理解するが、実際に開けたら袋の膨らみ具合に比べて、案外中身が少ないことにガッカリし、最後は砕けて欠片になったチップスを食べることに苦労する(笑)チップスターにそういうガッカリと苦労は皆無だ。その分価格では他社に負けているが、食べごたえと食べやすさには歴然とした差がある。味は人それぞれ好みがあるから、どちらがどうだと言うつもりはない。同様のパッケージにプリングルズがあるが、チップが筒に直接入っている分、割れやすいのではないかと思われる。また個人的には筒に直接手を入れなければ食べられないから、食べにくさは否めないと思われる。その点、チップスターは一度包装した上で筒に入っているから、そういった憂慮もまったく必要ない。

筒部分にはポテトチップスの重ねられた写真があり、よく見ると筒の中の包装を開けた状態になっている。これは、

中身の状態をわかりやすくしている。

驚くことにパッケージにある写真と実際に開けた時のギャップがない。パッケージの写真どおりギッシリ詰まっている。これは

“かなり嬉しい”

ことだ。

こうして見ると、

食べる人への期待を裏切らない

という企業のメッセージを感じる。そして赤色には、陳列棚にあるライバル社の中で、

少しでも目立つようにという健気さ

が感じられる。また赤色には食欲を刺激する効果もある。このようにチップスターのパッケージには、

商品をとても丁寧に扱う妥協なき真摯な企業姿勢

が窺えるのだ。

スーパーマーケットにおけるチップスターは、大体陳列棚の最下段に置いてある場合が多い。酷い場合は、最下段の端の方に追いやられている。正直視野に入りにくく、そのハンディたるや想像に難しくない。スーパーマーケットからすれば、筒状だから陳列しにくいのかもしれない。それでもチップスターは

筒状のパッケージスタイルを止めないところに、商品への自信を窺わせ、ブランドの矜持

を感じるのだ。コンビニエンスストアでは、ハーフサイズのパッケージがある。店舗スペースや客層を考慮した販売戦略だろうと思うが、

筒状であることとデザインは一切変えていない。

一時、よく行くスーパーマーケットからチップスターが消えた。まさか売り切れか?!と思いきや、置くことを止めたという。さすがに「ポテチといえばチップスターでないとダメだから仕入れてほしい」と店員に頼み、且つお客様カードにも書いたほどだ(笑)数日後、チップスターが陳列棚に並んでいて、即座に買ったことは言うまでもない。

店頭で商品を購入してもらうための【最後の砦はパッケージである】ということが少しは理解していただけただろうか。時々パッケージデザインにも注目し企業のメッセージを自由に感じて、日々の何気ない買い物がちょっと楽しくなれば嬉しい。

<メンタルサポート事業>

広告制作者のココロ持ち

前回のコラムでは生活者視点について書き、最後に広告制作には愛がなければならないと書いた。『愛』というと哲学的で抽象的なので、少し具体的に書いてみようと思う。

世の中にある商品やサービスは、単に営利目的ではないと仮定して、大企業から零細企業が提供するものはすべて、社会に資する『目に見える愛のカタチ』であるとする。

であれば、商品やサービスは、それらを提供する企業の『愛の塊』であると言うことができる。

例えばカップラーメンという商品。カップラーメンばかり食べていると健康によくないことは言うまでもない。しかしカップラーメンを製造・販売している企業の思いは、ちゃんと食事が摂れるまでの繋ぎとして、手軽に空腹を満たし、とりあえずの栄養を摂ってほしいという『愛情』からカップラーメンを提供していると思う。

例えば宿泊というサービス。ホテルや旅館の思いは、旅先でしばし日常生活を忘れ、少しでもゆったりと寛いでリフレッシュしてほしい、あるいは素敵な思い出を作ってほしいという『愛情』から、料理や設備、眺望などを通して宿泊というサービスを提供していると思う。

このようにクライアントが提供する商品やサービスは『愛の塊』であるから、クライアントにとって、それはそれは

“可愛い大切なもの”

であることを、広告制作者はまず理解しなければならない。さらに、クライアントは(無意識に)可愛さ余って親バカのような心境になっているから、広告には『あれも言いたい、これも言いたい』となりやすいことも理解しなければならない。

しかし悲しいかな、他者(生活者)はそれらを聞いたところで『へぇー、そうなんだぁ』ぐらいしか思わないものだ。だからこそ、可愛いところはいっぱいあるんだけど、中でもここが飛び抜けて可愛いんだよね、と言ったほうがいい。なぜなら、ここが飛び抜けて可愛いと言われると、人は『どこどこ?』と好奇心をくすぐられ、見てみたくなるのが人情だからだ。我が子や恋人に置き換えるとわかりやすいかもしれない。我が子の可愛さ話や恋人のノロケ話を聞いた他者は、どういう反応をするか言わずもがなである。

広告制作者は親バカなクライアントが他者から嗤われたり、呆れられたりしない親であってもらうために、(可愛い大切な)商品やサービスに共感しつつ、他者視点で褒めることが求められる。簡単に言えば『この部分は本当に可愛いから、見たほうがいいよ』という口コミのような具合だ。

そのためには「そんなこと言っても見られませんよ(聞いてもらえませんよ)」とか「こういう言い方や見せ方のほうがいいですよ」「あえて全部見せないほうが(言わないほうが)いいですよ」といった、

愛のムチ“も”

必要になってくる。

クライアントの言うことをただ聞くことは『やさしい虐待』のようなもの

だと思っている。俯瞰して見た時に結果的に独りよがりな広告になってしまうから、クライアントのためにならないし、生活者のためにもならない。

広告制作者は広告を制作している瞬間、クライアントの次にクライアントの商品やサービスについて誰よりも最もよく考え、心を砕き、いかに価値ある商品であるか、いかに優れたサービスであるか、それをどう伝えるかに心血を注ぐ。

時々コンサルタント業と似ていると言われるが、似て非なるものだ。コンサルタント業は医師みたいなもので、広告制作者は(偉そうで恐縮だが)教師みたいなものだと言えばどうだろう。教師(広告制作者)は保護者(クライアント)と深く関わり、共に子供(商品やサービス)をいかに育むかを考える。医師(コンサルタント業)は患部(非効率・負債など)をいかに治療(改善・是正)するかを考える。医師(コンサルタント)と教師(広告制作者)とでは『愛情の表現方法』が違うことは明白だろう。

最後に独断と偏見だが、広告制作者の愛がよく表れていると思う広告を挙げたい。新潟県に本社を置く佐藤食品工業株式会社という企業がある。有名な商品なので知っている人も多いと思うが、この企業の商品に『サトウのごはん』がある。

玄関開けたら2分でごはん

というコピーを聞いたことがあると思う。クライアントは『電子レンジで2分温めれば食べられるスゴいご飯なんだよ!』と言いたいのは容易にわかる。便利なのはわかるが、生活者にはこの【スゴさ】がイマイチ伝わらない。そこで、『玄関開けたら』と前に付けることで『そうか!帰宅して2分で食べられるということか!』と具体的に想像できるようにした。これは商品価値をいかに引き出すか、生活者視点ではどうなるのか、という広告制作者の『サトウのごはん』への愛が生んだ好例だと思う。

メンタルサポート事業部

生活者視点

広告は誰が見るかを考えた時、それぞれターゲットの違いはあるものの、共通しているのは一般の生活者であることだ。法人の場合もあるが、いわゆる街に溢れる多くの広告は生活者が対象だ。

クライアントは商品やサービスの良さ(価格・品質・機能・性能・耐久性などなど)を伝えようとする。至極当然なことだ。ただ、良さをアピールしようとすればするほど、時に細部にまで至る場合がある。そうすると、生活者から見ればいろいろあり過ぎて、印象にすら残らない結果になる。

新聞広告や雑誌広告などは、良さを言おうとすればするほど文字情報や写真が多くなる。生活者はその瞬間『読むのが面倒くさい』と思うか『ただスルー』され、何れにしても飛ばされてしまう。つまり新聞広告や雑誌広告はページをめくった瞬間に判断されてしまうから、テレビCMよりシビアだ。

印刷されている広告を俗に【紙媒体】というが、紙媒体はどんな媒体であれ、スペースが限られている。たくさんアピールポイントを入れ込もうとすればするほど、ひとつひとつのアピールポイントは自ずと小さくなり、全体の見た目としてギッチギチな広告になってしまう。こうなると、

大抵の生活者は読もう(見よう)と思わない。

そこで重要になってくるのが、広告制作に携わる者の

生活者視点

で、クライアントの最も身近な生活者として、広告を制作しなければならない。

私は基本はクライアントの意向を重視するが、生活者視点で見た時に『これは読まれない(見られない)』と思ったら、忌憚無く意見し、商品やサービスの良さの中でも目玉となるアピールポイントに絞ることを進言するように心がけている。

まず見てもらわなければ話にならない。

興味関心を抱いた生活者のために、細部の良さを丁寧にアピールする媒体としてWEBサイトを活用していく。WEBサイトは紙媒体と違って動画も掲載でき、より生活者の理解を促進させることができる。

クライアントの意向をそのまま聞いて制作してしまうと、ほぼクライアントの独りよがりな広告になってしまうことが多い。クライアントだけが満足し、生活者にとってわかりにくい、見づらい広告になってしまうのは本末転倒というものだ。

そうならないためにも、広告制作に携わる者が生活者視点で時に意見し、提案し、クライアントにも満足してもらい、同時に生活者にも苦にならない広告を制作しなければならない、とても責任のある立場だ。

そのためには、ベタな言い方で恐縮だが、

がなければいけないと思っている。

メンタルサポート事業部

フォント(書体)のチカラ

新年明けまして、おめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

2020年 子年

新年最初はフォントについて書こうと思う。というのは、フォントとはデザインされた文字で、フォントによって印象が違うからだ。

あまり手紙を書かなくなったと思うが、数通でも年賀状を出し、この正月に受け取った人もいると思う。この時期限定と言ってもいい少し耳にする

印刷されたものより、手書きのほうがいいよね

という感想。手書きの年賀状のほうが人は好意を持つのはなぜか?と広告的に考察した時、内容もさることながら、潜在的にはフォントのチカラではないかと思った。

確かに印刷されたものは、手書きで書かれたものより圧倒的にキレイだし、見やすい、読みやすい。それなのに『手書きのほうがいい』とはどういうことなのか?

一般には送り主の『個性』とか『その人らしさ』などを感じるから、というのが多くの意見だろうと思う。『らしさ』を醸し出しているのは筆跡だが、筆跡を広告的視点で言うと、

その人がオリジナルにデザインしたフォント

だと言えるから、となる。それは同時に世界唯一のフォントであり、唯一無二なフォントであると言える。だからこそ、送り主その人の存在を直接的、本能的に感じられ、それが先に書いた、

印刷されたものより、手書きのほうがいいよね

という感想を受け手に言わせるのだろうと思う。つまり印刷だけの年賀状より、手書きの年賀状にはリアルなその人の存在感を感じるのだと思う。

日常に目を向けると、百貨店と近所の地場スーパーマーケットの広告を想像してみるとわかりやすい。百貨店の広告はDMを含め、綺麗にデザインされ印刷された広告が手元に届くことが多い。手書きのそれは見たことがない。一方で近所の地場スーパーマーケットの広告はというと、赤や青の一色で印刷こそされているが、手書きで書かれた広告が手元に届く。

百貨店の広告は高級感や高品質、高サービス、ワクワク感などを全面に表現して作られている。これは人々の夢や憧れ、ステイタスという

『ハレ』のニーズ

に訴えかける。

一方で地場スーパーマーケットの広告は、親近感や経済性などを全面に表現して作られている。店内の手作り感満載のポップも含めて、これは人々の日々の生活という

『ケ』のニーズ

に訴えかける。

こうしてみるとフォントには我々の無意識に働きかけるチカラがあることがわかる。日常生活において、フォントを意識することはまずないと思うが、フォントを常に意識しているのが広告だ。一般に、親しみや優しさ、面白さ、安心などを訴求する時は、ゴシック体系のフォントを使用することが多い。逆に信頼や誠実、伝統、自信などを訴求する時は、明朝体系のフォントを使用することが多い。

またターゲットによってフォントを使い分けることもある。子供や若年層などがターゲットの場合はゴシック体系を、男性やキャリアウーマンなどがターゲットの場合は明朝体系を使用することが多い。

ここではフォントにフォーカスして書いているが、実際にはこれにデザインが合わさって、商品やサービスの独特の世界観が作られる。ただフォントがデザインと少し違うのは、世界観をカタチ作る役割と同時に、実際に読んでもらうコピー的な役割もあるから、フォントには神経を使う。素晴らしいコピーであっても、そのフォントの太さ、大きさ、色、レイアウトによって、その商品やサービスの世界観が最終的に決まってしまうと言ってもいい。

名刺には相手にどんなイメージを持ってもらいたいか、その意図が凝縮している。今勤めている会社の自分の名刺のフォントを改めて見ていただきたい。名刺交換をした時、そういう視点で相手の名刺を見ると、その会社がどんな会社か垣間見えると思う。逆に自分の会社も相手にそう見られている可能性もある。店舗のショップカードは最たる典型例だろう。

一度は経験があると思うが、日本の保険会社の名刺と外資系の保険会社の名刺とでは、雰囲気が違うと思ったことはないだろうか。ざっくり言うと、日本の保険会社の名刺はどちらかというとゴシック体系のイメージで親しみや安心を表し、外資系の保険会社の名刺はどちらかというと明朝体系のイメージで自信や信頼を表している印象を受ける。

通勤電車でスマホもいいが、たまには車内の広告のフォントに注目して、好き勝手にあれこれ意図を想像してみるのも面白い。

メンタルサポート事業部