『新しい生活様式』広告的視点

久しぶりになってしまい、季節はもう夏になろうとしている。その間、新型コロナウイルスの影響でたった3ヶ月の間に、社会や生活は劇的に変化した。

そして今、厚生労働省が策定した

新しい生活様式

という言葉をよく耳にするようになった。

この『新しい生活様式』を広告のキャッチコピーとして見ると、一般的な広告のキャッチコピーと随分違和感があることに気づく。

まず『新しい』という言葉は、新登場や新発売、新機能、新サービスなど、それこそ今までなかったものが誕生したことをアピールするアニバーサリー的な意味合いをもって使われる。暗黙の了解で、その内容は楽しいこと、面白いこと、驚くこと、感心することなど、ワクワクすることが一般的だ。

しかしこの『新しい生活様式』の場合はどうだろう。直感的にワクワクするだろうか・・・。私はしない。

どうもこれはキャッチコピーとして間違っているか、あえて世論を誘導しようとする意図を感じてしまう。

つまりこのキャッチコピーは、たとえ新型コロナウイルスのワクチンや薬が開発され、インフルエンザ並み(※)のウイルスとなったとしても、永久にこのライフスタイルを維持させようとする意図を感じてしまう。

※それでもインフルエンザによる年間死者数は3000人以上と言われている。2018年では3325人だった。(2020/2/18 PRESIDENT Onlineより)

本来であれば、

予防する生活様式

のようなキャッチコピーではないだろか。“新薬やワクチンが開発されるまでの間”というニュアンスを含むべきではないかと思う。『新しい生活様式』という言葉にそれは感じない。一時的ではなく未来永劫のライフスタイルとして提案(半強制?)している気がしてならないのは思い過ごしだろうか。

前新潟県知事は『つまらない生活様式』だと揶揄した。つまらないのは確かだが、これをまともに実行しようとしたら、例えばほとんどの飲食店は店のレイアウトの変更を余儀なくされ、これを機に廃業してしまう店も出ることは想像に易しい。あらゆる分野において全般的に客単価を極端に値上げしないと採算は難しくなる。果たして現実的ではない。中には新しい生活様式を守っていたらビジネスとして成立しないため、消滅してしまうものもあるだろう。つまらないどころの話ではない。

私たちのコミュニケーションも変わってくる。どんなに工夫をしても、今までに比べて極めて希薄になっていくのは自明で、人間が壊れやすい社会になっていく気がする。人間にとって直接会って話すという基本的なコミュニケーションに勝るものはない。

そう考えていくと、今までの文化を破壊しかねない『新しい生活様式』は果たしてキャッチコピーとして相応しくないのではないかと思ってしまう。非常に危険で罪なキャッチコピーだ。

誰しも新型コロナウイルスに感染はしたくない。しかし、そればかりに意識が引きずられてしまうと、失うものがあまりにも大き過ぎる。飽くまでも『新しい生活様式』なるものは一時的な処置であってほしい。

『新しい生活様式』というキャッチコピーに躍らされることなく冷静に受け止め、未来永劫のライフスタイルとして定着させない意識と対応が私たちに求められていると思う。

【ひらく】と印象が変わる

【ひらく】という言葉は、広告制作の現場で使われると一般の意味とは全然違ってくる。一般には文字通りの『開く』という<オープン>の意味で使われると思う。

実際の現場では「これは、ひらいて!」とか言われる。つまりどういうことかというと、

漢字で書かれた言葉をひらがなにする

という意味だ。同じ言葉でも文字になると、その言葉から受ける印象が変わると感じたことはないだろうか?

例えば、『心』という言葉。話し言葉だと全く感じないことが、文字という見えるカタチになると、途端に雰囲気が変わってくる。

心 こころ ココロ

漢字の『心』は<真面目><お堅い><シリアス><堅苦しい><神聖さ>など、清らかで揺るぎない印象。

ひらがなの『こころ』は<優しい><やわらかな><あたたかみ><ほっこり感><安らぎ>など、包容力や情のある印象。余談だが夏目漱石の小説のタイトルもひらがなだった。

カタカナの『ココロ』は<科学的><軽やか><心地よさ><元気感><ポップ感>など、取っつきやすい印象。

これら以外の印象を持つ人もいると思うが、大体上記のような印象の範囲に収まるだろうと思う。日本語には漢字・ひらがな・カタカナの表記によって、どうやら印象が変わってしまう“特徴”があるようだ。他の言語にはない世界唯一のことかもしれない。

『薬』『くすり』『クスリ』でも印象が違うと思う。調剤薬局などはどちらかといえば『薬』、ドラッグストアなら『クスリ』、小児科医院や動物病院では『おくすり』となっていることが多いと思う。

意識的にせよ無意識的にせよ、なぜ、そういう使い分けがされているのだろうか?

それは、買う人、来る人、買ってほしい人、来てほしい人を考えて使い分けているからに他ならない。彼らをマーケティング用語で『ターゲット』という。

このターゲットに合わせて広告制作の現場において、漢字がいいのか、ひらがながいいのか、カタカナがいいのか、をいちいち考えている。コピーライターがそのことに神経を遣い、キャッチコピーやリードコピーに表現する。

例えば、ヤナセというカーディーラーがあるが、その広告コピーで、

クルマはつくらない、クルマのある人生をつくっている。

というものがある。如何だろうか?クルマをあえてカタカナ、作らないではなく『つくらない』、作っているではなく『つくっている』。これを漢字で普通に書くと、

車は作らない、車のある人生を作っている。

となる。言っていることは変わらないのに、印象は随分と違うと思う。前者は洗練された雰囲気と余裕を感じるが、後者は実直で職人気質のような頑固さを感じないだろうか。言っていることは同じでも印象はまるで逆だ。

どう感じるかは人それぞれで構わないが、同じ内容でも表記によって印象が違うということを感じてくれたらと思う。

仕事でメールを使用することが多いと思うが、ところどころ漢字をあえてひらがな、あるいはカタカナで表記する【ひらく】ということを戦術的におこなうと、相手に自分の印象を作ることができることを覚えておいても損はないかもしれない。また、相手によって使い分けてもいい。セルフブランディングの一助にも役立つと思う。

<例1> 
偉井部長、お疲れ様です。 
明日の飲み会は午後7時からです。 
いらっしゃる時はお電話下さい。
宜しくお願い致します。

<例2> 
偉井部長、お疲れさまです。
明日の飲み会は午後7時からです。
いらっしゃる時はお電話ください。
よろしくお願いいたします。