読み手と【字切り】

一般に【字切り】という単語は耳慣れない言葉だと思う。広告制作の現場ではよく言われる言葉なので、業界用語と言ってもいいかもしれない。

何かというと、例えば次のようなコピーがあるとする。

かわいい子には旅をさせろ、それは生きていく知
恵を育むことを願う親心だ。少年よ、旅に出よう。

インターネットの世界ではこういう感じではないだろうか。しかし、紙媒体に掲載するとなれば、これではいけない。紙媒体に掲載する時は、

かわいい子には旅をさせろ、それは生きていく知恵を
育むことを願う親心だ。少年よ、旅に出よう。

となる。言っていることはまったく変わっていない。違うのは『知恵を育む』の部分を『知恵を』で敢えて改行し、『育む』を二行目から書いてあるかどうかの違いだけだ。意識的に改行されている後者のほうが、読み心地としてはよくなっていると思う。

読み手になるべくストレスを与えずに読んでもらうために、意識的に改行することを、

【字切り】

という。インターネットの世界では、この【字切り】を考慮していない。それは恐らく、端末によって見え方が違ってしまい、こうした【字切り】の意味がなくなってしまうからだろうと思う。そのため、インターネットでは時々おかしな終わり方が散見される。

例えば、

来年の東京オリンピックのマラソンは北海道の札幌に急に決まった。

最後の「た。」が勝手に改行されて字余りのような終わり方になってしまうというものだ。

紙媒体であれば、グラフィックデザイナーがそれぞれの文字と文字の間を調整して、一行に収まるようにする。

この文章で言えば『オリンピック』や『マラソン』という各文字の文字と文字の間は『北海道の札幌に急に』よりも余裕がある。

特に、

オリンピック

の『リ』と『ン』や『ッ』と『ク』の間は余裕がある。そこの文字間を詰めて『た。』だけが改行されないようにする。それでも難しい時は、

マラソン

の『ラ』『ソ』『ン』の間を詰めるなどで対応する。

広告制作の現場では、こうした地味な作業をおこなっている。常に読み手がより読みやすいように、また、全体のデザインのバランスを崩さないように、である。

電車の中吊り広告は、この【字切り】が駆使されているので、時々そういう視点で眺めてみると、窮屈&退屈な通勤通学の電車内がちょっとだけ楽しくなるかもしれない。


ブランディングは1日にして成らず

ブランディング、よく耳にする。ましてや、広告制作の仕事をしていると、それが仕事だったりする。ブランディングとは?と改めて考えた時、『目に見えない価値』と言い換えることができる。目に見えない価値とは何か?というと、世界観、信頼、思想、物語、歴史、文化というものだ。

それらを送り手が受け手にできるだけ正確に伝え、認識させる『作業』が、いわゆるブランディングといわれる。

例えばA社が新商品を発売するにあたり、その商品をA社のブランドとして育てたいとする。そこではA社がどういう思いで開発したのかがまず重要になってくる。

今のトレンドに沿った、マーケット受けする新商品という位置付けは、ただ単にマーケットを飽きさせない話題作りでしかなく、ブランディングとは違う。

その新商品をA社のブランドとするには、どういう思い<思想>で開発<物語>したかが必要不可欠になる。開発秘話を見たり聞いたりした時に、何気なく買っていた商品が違ったものとして見えてきた経験はないだろうか。それがブランドの持つ力であり価値のひとつだ。身近な商品でいえば、日清食品のチキンラーメンの開発秘話がそれに該当する。

また、よく老舗の和菓子屋の暖簾に『創業寛永◯年』と書いてあるのを見たことがあると思う。それは『歴史』という目に見えない時間価値を示し、その歴史に裏打ちされた『信頼』の証をそっとブランディングしている。『宮内庁御用達』も同様。それを街ぐるみでやっているのが京都。京都という街自体が、まさにこの『歴史』と『信頼』を最大限ブランディングし『日本文化』の代表都市として世界に認知され、今の外国人観光客の誘致に成功している。

つまり、

ブランディングは1日にして成らず、

である。腰を据えて時間をかけ、じっくりと丁寧に取り組み“続ける”こと。文字通りBRAND“ING”で現在進行形なのだから。故に送り手側は常にブランドのための手間と時間とお金を惜しまない覚悟が必要になる。だからこそ、マーケットで差別化ができ、唯一無二な存在として信頼を勝ち取り、揺るぎない地位と価値を確立できる。それは価格競争に巻き込まれにくいことにも繋がる。

ただ単に知名度を上げることだけがブランディングではない。

押し売りコンサル

最近、自社のホームページをリニューアルしたせいか、WEB系の会社から営業電話を受けることがちょこちょこある。

ホームページを見てくれたことは素直にありがたいが、電話を切った後、毎回不快な重さを覚える。

ある時、またWEB系の会社から営業電話があった。嫌な感覚が生まれる瞬間に気をつけながら、相手の話に耳を傾ける。

そして、その瞬間は来た。それは自社のホームページを拝見した旨の話をした後、

ホームページの出来についてダメ出しをし始める。

自社制作で試行錯誤し、それなりに考えながら制作しているが、それでも至らない点はあるだろうし、無論完璧だとも思っていない。

それをこちらから頼んでもいないどころか、一方的に電話をかけてきてダメ出しをし始め、不安を煽る。一体どういう了見なのか、無神経にもほどがある。見ず知らずの人に言われる覚えはない。不快な重さの正体はこれだ。

徐々に怒りが込み上げる。

そんな感情を押し殺し、飽くまでもビジネスライクに会話をして(これがまた疲れるのだが・・・)最後は丁重にお断りして電話を切る。

切った瞬間、やはり何とも言えない不快な重さが心の底に沈殿していく感覚になる。

ある程度お互い知った関係の相手からのダメ出しなら、素直に耳を傾け、改善を試みようとする。自分でできないなら当然プロに依頼する。

そういう人間関係がまったくない、当然面識もない人からのダメ出しは、やはり表面上は取り繕えても、内心は穏やかではない。

たとえホームページの出来が悪くて心底手直ししたい、と思っていたとしても、

余計なお世話だ!

となる。

要するに『一方的にダメ出しして不安を煽り、ウチなら上手くやりますよ』と言いたいだけだ。まるで悪徳押し売りコンサルで下品だ。

どんな見てくれであろうと、作った人は一生懸命作ったはずだから、そこはちゃんと尊重する、これはビジネスハートの基本だと思っている。

人を小馬鹿にしたような営業してないで、人としてどう見られるかを考えてもらいたいものだ。

この手の営業電話には気をつけましょう!

テレビショッピング

美容化粧品、健康器具、服飾雑貨、宝飾品、家電、日用品、健康食品、サプリメント、特産食材、加工食品、医薬品・・・。

深夜、BS放送はどのチャンネルもテレビショッピング一色になる。内容も多種多様で花盛りな様相を呈している。番組形式はさまざまだが、テンションはすべて高いことは共通している。当然と言えば当然か(笑)

今まではつまらないと思っていた。

しかしある時から、そのテンションの高さには違和感を覚えながらも『面白いと感じている自分』がいる。

出演している芸能人のオーバーアクションはお笑い番組を観ているような心地になる。司会者やバイヤーの褒めちぎり方も滑稽に見えて面白い。

それはなぜだろう?

と考えた時、あることに気づいた。それは1時間の番組の中で、商品説明や特徴の話がループしていることだ。さっきも同じ説明をし、デモンストレーションをしていたが、再び初めてするように説明やデモンストレーションを高いテンションで繰り返す様が滑稽で面白いのだ。途中から観た視聴者を考慮してのことだろうが、1時間の番組中に3回はそれを繰り返している。

それに気づいた時、テレビショッピングは自分にとって面白いコンテンツとなった。扱っている商品はどうでもよく、売らんかなとしている出演者、司会者、バイヤーたちのオーバーでわざとらしい振る舞いが面白くて仕方ない。いかにお得で安いか、数に限りがあるか、今から30分以内なら云々と少し早口で煽り気味に終始展開するのもお馴染みだ。下手なバラエティー番組よりも面白いと思うことすらある。

少なくなった印象はあるが、番組に観覧に来ているおばちゃん連中のいちいち聞こえるわざとらしいどよめきと、司会者が価格を発表した時のオーバーな歓喜の声は鬱陶しさと滑稽さが入り混じった微妙な面白さを醸している。

失礼ではあるが『販売元の人の大根役者っぷり』は本当に面白い。例えば「2つで4,980円!」と言った後、(台本どおりに)出演者やスタッフに値切られ、迷った挙句に苦渋の決断をする演技がたまらなく面白い。予め3つで4,980円であることは打ち合わせ済みだったはずだ(笑)

またあるテレビショッピングでは、販売会社の社長自らが進行役として出演しているのだが、滑舌が悪い上に妙な合いの手が入るナレーションにはズッコケるようなお笑い番組を観ているようで愉快だ。テレビショッピングの新しい見方を発見して以来、愛すべき番組になった。

今夜はどんな商品でどんなリアクションが見られるのだろう(笑)

長月の雨音

水曜日は雨だった。朝は少し薄日が差していたように思ったが、昼が近づくにつれ、空は雨雲に覆われた。そしてまもなく雨が降ってきた。

風はなく、雨音だけが聞こえる。よく聞くと、やさしい音をしていた。やわらかく瑞々しい音。雨粒は夏のそれとは違い小粒で耳に心地よい音だった。好きな雨だった。

叩きつけるような暴力的な雨ではなく、渇いて生気が衰えたものをやさしく励ますような雨。雨音に癒される思いがした。

科学的には秋雨前線が云々なのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。夏の陽射しに照らされ続け、疲れた木々の葉に雨粒が当たり、雨音はその木々の葉が喜んでいるように聞こえてくる。だから耳に心地よく、穏やかな気分になるのか、と一人腑に落ちてみたりする。

ふと小説を読みたい衝動に駆られた。紙の匂いと長月の雨音は相性がいい。微かに香る雨の匂いは、あたかも一輪の花のような見えない彩りを添えた。

夕刻が迫るにつれ、雨は止んでいった。もう少し降っていてほしかったが、この自然の気まぐれを受け入れるしかない。受け入れた時、この日の雨がもたらした心情への影響は大きかったと気づく。

トレインマーク:広告的視点

小学生の頃、鉄道模型に衝撃を受けた。銀座には鉄道模型をメインにしたバーがあり、ジオラマの中を鉄道模型が走っているようだ。いずれ行ってみたいと思う。

その中でも寝台列車が好きだった。今もその気持ちは変わらないが、残念ながら合理化のため、今はほぼすべてと言っていいぐらい廃止されてしまった。

その昔、国鉄時代の特急列車の前後の車両には、列車名とともにイメージの絵が掲出されていた。いわゆるトレインマークというものだ。それが広告的にとても優れていると思っている。

                  寝台特急『さくら』

例えば写真の寝台特急『さくら』。機関車の中央に桜の花に『さくら』と表記されたマークが付いている。これを広告的にひと言でいうと、

シンプルでとてもわかりやすい。

これは広告の理想でもあると思っている。電車の中吊り広告を見ていると、情報が多い広告、シンプルな広告とさまざまなタイプがあり、それはそれでいいのだが、やっぱり印象に残るのはシンプルなものが多い。

最近いいなと思ったのは、新幹線で見た自動車メーカーのMAZDAの広告。

ここでいうシンプルとは言葉(コピー)と色が必要最少限に抑えられているもので、その必要最少限の中にメッセージを込める。故に独特な表現が生まれるのも頷ける。またイメージが明確化され印象に残りやすい。これはブランディングにも通じる。

トレインマークは広告的な要素がギュッと凝縮された好例だと感心している。ただ残念なのは、最近の特急列車はメカニックでシュッとしたデザインが多く、トレインマークそのものがない。

ちょっと寂しい。いや、すごく寂しい・・・。

スーパーマーケットにて

時々、スーパーマーケットへ行く。言うまでもなく買い物をしに行くのだが、最近スーパーマーケットが楽しいと感じている自分に気づいた。

タイムセールなど何かイベントがあるからでも名物店員がいるわけでもない。ただ陳列棚にある商品を見るのが楽しいのだ。

商品がそれぞれに『見てくれ!』と言っている。

◼️

鮮魚コーナーは水族館か博物館にいる気分になったりする。秋刀魚を見て、こういう形をしているのか、とか、『秋刀魚』という漢字を頭に浮かべながら実物を見てはよく言ったものだなぁと感心したり。鰯を見て、意外と大きいな、水槽で飼うには無理だ、と思いながら小魚という認識が吹っ飛ぶ。

カップラーメンは面白い。パッケージを見ているだけで、美味しそうというよりワクワクしてくるのだ。デザインや書体、ネーミングを見ていると、各メーカーの苦心の痕が窺える。

無機質な会議室で大の大人が難しい顔をしながら、あーでもない、こーでもない、と言い合った末のものが目の前にあるのかと思うとクスッとなる。そして、いつしか

それらのカップラーメンが愛おしくさえ思えてくるのだ。

精肉コーナーでは鶏肉、豚肉、牛肉がさまざまな部位に切り分けられている。ムネやらモモやら、ロースやらバラやら、国産やら米国産やら。肉の色ってキレイだな、どんな牛や豚だったのかな、鶏ってマッチョなのかも、可愛かっただろうな、そう思いながら命を考えてしまい切なくなったり・・・。

それでも食べたいと思う自分の食欲を嫌悪して、そっとため息をついたりしている。

◼️

もはやスーパーマーケットはただ買い物をする場所ではなく、悲喜こもごもが味わえるちょっとした劇場だ。